伝統
日本武道の特徴である、真の道徳的価値を伝えるのはすべての武道/流派の義務です。
尚且つ、総合拳法は日本で形成されたハイブリッド・混成武道です。西洋からの技(主にボクシング)も取り入れていますが、総合拳法は、他のコンタクトスポーツに輸出された技を含むすべての技の歴史、技そのものの形及び本来の名称を保持しています。従って、偉大な金光彌一兵衛先生の研究及び技は総合拳法に直接影響を与えました。
総合拳法の名の由来
磯貝一の「柔道手引」にも書かれている「起倒流拳法碑」は安永八年己亥春二月丙辰朔九日甲子(1779年2月)に江戸円福山寺に建てられ、現在は愛宕神社にある。
拳法が伝わったのは、日本に帰化した明国の人陳元贇から始まる。「起倒」という名称は、福野氏から出ており、寺田氏の時にできあがった。寺田氏の後、起倒流拳法は二回伝承して、滝野氏に至った。滝野氏の名は貞高、平安の人である。諸国を周遊し、ついに東都江戸に十数年留まった。彼の元で稽古した人は大変多く、一時名が諸侯の間に聞こえた。しかし、起倒流拳法の奥義を極めた人はただ二人で、比留川氏は先輩として最も知られていたがすでに晩年であった。だから、滝野氏の技芸を継承したのは、ただ有慶翁だけであった。翁の姓は加藤、名は長正、丹後の人である。師(滝野氏)に従って東(江戸)に来て、数十年間直接滝野氏から教えを受け拳法が成就した(技が出来上がった)。まさに青は藍より出でて藍より青し。その後、起倒流拳法を弘めるために、四十年間も勤めた。今に至り弟子は千余人もあり、固より弟子が足りない訳でもないが、集散(集まったり散ったりすること)は常なく、克亡(よくなったり滅んだりすること)もよくあることである。ただ今志を継承して江戸に於いて起倒流拳法を教えるのは、嗣子の長英で、ほかに事理において翁と全く同じであるのも多くないわけではない。有慶翁の門下生は、今みなその名前を石碑の裏面に記録しておいた。もし後の人は今の弟子に及ばないなら、述べて語ることは途絶えてしまう。翁の年齢はすでに70余歳、あるいは百年の後、もし西河の人が夫子を疑うかもしれないということを危惧する。だから起倒流拳法の由来を大まかに述べのて、石に刻んで江戸の円福山寺に立てて置き、後世の人にこれを証拠として取らせるということである。
弟子兎道澤元愷弟侯 撰す
東都後学源氏鱗文龍 書并び額を題す
安永八年己亥春二月丙辰朔九日甲子 建つ
松橋中慶雲刻字
李麗(2017)『陳元贇の生涯と思想』富士ゼロックス株式会社 小林基金
上記の「起倒流拳法碑」には、起倒流は元々「起倒流拳法」であったと証されている。
総合拳法の真の志は金光彌一兵衛先生の思想及び技、そして金光先生のルーツである起倒流の歴史を後世に残すことである。その為、起倒流の元の名である「拳法」の名を借り、総合は一つに合わせてまとめること、即ち、起倒流拳法を基盤に創始者が今まで習得した戦闘術及び防御術を合わせると言うことである。